真夏の夜の夢



 濡れた髪から水滴が滴り落ちる。
 首にかけたタオルで髪を拭いながら、上半身は裸のままバスルームから出てきた鏡夜は、適度に空調のきいた部屋にほっとしたように息をつくと、そのまま奥の部屋へ向かった。だが、さきほどまでそこに座っていたソファに彼の姿がないことを確認し、 更に寝室へと足を運んだ。

 ここはホテルの最上階にある最高級スイートルーム。須王財閥が経営するホテルである。
 アンティークで統一されたここは、いくつも部屋があり、メインルームにはグランドピアノまで置かれているほどで、その豪華さと広さは言うに及ばず、一部の著名人でなければ決して足を踏み入れることのできない空間だ。
 そんなホテルよりも旅館に泊まりたいという環の意見を完全に無視し、鏡夜が勝手に手配したものだ。

 メインルームを通り抜け、広い寝室に足を踏み入れた鏡夜は、大きなベッドの上、すやすやと幸せそうな顔で眠る環の姿を見て、ひとつため息を吐いた。

「まったく、こいつは、子供か?」

 呆れたように呟いた後、ベッドサイドの時計に視線を向けると、針は十時を少しまわったところを指していた。


 鏡夜と環が恋人という関係になって初めて共にする夜であった。
 久々に京都に行ってみたいという環と、夏休みを利用して観光にやって来たわけなのだが、さすがの鏡夜も京都の厳暑を少々甘くみていたことに気づいた。うだるような暑さの中、それでも暑さなどそっちのけで精力的に動き回る環と共に行動していた鏡夜は完全に参ってしまった。

「お前は暑さを感じる感覚というものがないのか?」
「何を言っているんだ、鏡夜。夏は暑いものだ。四季があるからこそ日本は美しい」
 堪り兼ねてそう口にしたところ、げんなりとするような熱い答えが返ってきて、鏡夜はそれきり口を噤んだ。
 真夏に来たのは失敗だったなと、心の中で思いながら、じりじりと照りつける太陽の下、隣ではしゃぐ環と共に京都らしい細い通りや坂を黙々と歩き、神社仏閣を巡った。
 それでも夜が近付くにつれて次第に暑気もその勢力を弱める。
 街が夕闇に沈み始めた頃には、四条大橋の欄干にもたれ、鴨川を見下ろす二人の頬を撫でる風が、それなりに心地良いと思えるほどになった。
 浴衣が着たいという環の要望を聞き入れ、履き慣れぬ下駄でカラコロと音をたてて先斗町通りを少し散策した後、二人は川床で食事をした。
「一度こうしてみたかったんだ」
 目を輝かせて満面の笑みを見せられる度に――時によってはそれさえ暑苦しいと思うときもあるが――まあ、悪くないかと、ほぼ諦めに似た感情が鏡夜の心を占拠する。それでもその感情を悟られたくなくて、わざと意地悪な答えを返してしまう自分のことを、 実は環は見透かしているのかもしれない。
 そう思いながらも鏡夜はわざと淡々とした口調で告げる。
「食べたら帰るぞ」
「ええー? この後も色々行きたいところがあるんだが」
「もう俺は疲れた」
「せっかく浴衣だって着たというのに勿体ないではないか。それに、夏の風物詩といえばほら、浴衣とうちわと花火だろ? あと、蚊取り線香とスイカか? どこかで縁側を借りることはできないだろうか? なあ、鏡夜」
「疲れたと言っている」
 ギロリと思い切り睨みつけると、彼は不満そうに頬を膨らませた。それでも鏡夜からの反応がないのを見て取った環は、ちろちろと上目遣いに同情を誘うような視線で訴える。でも、それも徹底的に無視されて、彼は渋々諦めた。
「明日だってあるだろう、今日は帰るぞ」
 鏡夜の台詞にこくりと素直に首を縦に振った。


   そうしてようやく帰って来たホテルで、先にバスルームを使った環は、このようにすっかり夢の中というわけだ。
 鏡夜は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して喉の渇きを潤すと、ベッドサイドに腰を下ろした。すうすうと寝息をたてて眠る環の髪に手を伸ばしてみると、亜麻色の髪はまだ乾ききっていなかった。いつも何かを訴えかけてくる蒼みがかかった瞳は閉じられていて、 その分睫毛の長さが強調されている。

「まったく、いい度胸をしているな」
 恋人同士が初めて迎える夜に、無防備に眠りこけているとは。
 あれだけ昼間はしゃいでいたのだから当然とも言えるのかもしれないが。
 ふんと鼻で笑った鏡夜は、環を見つめたまま考えを巡らす。
「どう料理してやるかな」
 環が起きていたならば間違いなく後退りをするであろう笑みを鏡夜は口元に浮かべた。
 窒息させてやるかと、僅かに開いている形のいい唇を見つめながら思ったその時。
 その唇が動いた。

「……ママ……ン」

 嬉しそうにふわりと微笑みながら環は呟いた。その弛緩した表情に思わず鏡夜は動きを封じられた。
 おそらく、母の夢を見ているのだろう。会いたいなどというそぶりは今まで全く見せたことがない環だったが、会いたくないわけがない。 こうやって夢で会うしかないんだな――。

 鏡夜はなんともいえない複雑な気分になり、そんな自分に舌打ちする。

 お前は今日俺と京都へ来ているんじゃないのか? なのに、今はフランスか? まったく忙しい奴だ。
 それにと、鏡夜は小さく声にする。

「お前こそ、実は全て計算しているんじゃないだろうな? 環」

 夢路をたどる人の髪をそっと指で梳きながら鏡夜は目を細め、その口元に僅かに苦笑を滲ませた。
END

2006.9

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グッコミで配布したものです。環は母上のことを何と呼ぶのか……捏造。